今日読み終わった本-「カラヤンがクラシックを殺した」



『カラヤンがクラシックを殺した』 宮下誠  光文社新書(2008年)


20世紀前半にはクラシック音楽界には、巨匠、神童、巨人、帝王、獅子王などの称号を付けられたカリスマ性のある演奏家が、星の数ほど存在した。それも、ほぼ同時代に欧米を中心とした狭い地域で活躍していたのである。それが、20世紀後半に入って、音響再現技術が極度に向上・発展しつつあったにも関わらず、クラシック音楽は火の消えたように沈静化してしまった。それは何故か?私の長年の疑問だった。この本のタイトルを見て、思わず膝を叩きたくなったのである。

モノクロだったが、米国映画に「カーネギーホール」があり、そこには当時の巨匠達が次から次へと短時間演奏技術を披露する、その超豪華な面々が良くもこんなに揃っていたものだと驚嘆させられた。ところが、帝王と言われた指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンが表舞台を去ると同時に、華やかなクラシック音楽の熱ばかりでなく後継者の演奏家も出なくなった。まさに、この本のタイトルがその答えを出してくれそうな予感がしたのである。

勢い込んで一気に読み進め、読み終えたが、残念ながらその期待には応えてはくれなかった。筆者の経歴を見ると、専門は西洋美術史・一般芸術学とある。この本の題名のクラシックとは音楽分野のことなので、筆者の専門からすれば副業に類する範疇かも知れない。しかし、クラシック音楽は専門家以上に聞き込んで、研究されたことはこの本を通じて強烈に伝わってくる。

しかし、文脈は新聞雑誌の美術評論、音楽批評欄に出て来るような、自分の意見をはっきりと断定的に表現することなく、どっち側に転んでもケガをしない文脈に終始している。それを補うのが豊富なあらゆる表現の形容詞であり、修飾句の洪水で、筆者の高い文章力・表現力である。ただ端的に言って、何が言いたいのか結局判らなかったのである。

一例として、「その絢爛豪華な音楽絵巻には人をして感嘆させる力があるし、シャープで豪華極まりない音の洪水には陶酔感さえ伴っている」と持ち上げたその直後に、「それにしても、この何とも言いようのない”いやらしさ”、””気持ちの悪さ”、”救いのなさ”はどこから来るのだろうか?」と言った類の説明が随所に出て来る。

カラヤンの大衆迎合型の対極として、相反するアプローチのオットー・クレンペラーとヘルベルト・ケーゲルを比較して論じる後半は、本のタイトルから本筋を離れた感があるものの、それぞれの演奏法の違い、音楽への取り組み違いを浮き出させて、面白く読んだ。

ただ、この本はクラシック音楽を交響曲などの管弦楽曲に限定してしまって、指揮者だけに焦点を絞って述べているが、クラシック音楽には他にピアノや弦楽四重奏などの室内楽があり、20世紀前半には夫々の分野の巨匠と言われるソリスト達が割拠していた。20世紀後半から21世紀にかけて、それらの人達も姿を消し、優れた後継者が出て来ていないのである。何も指揮者に限った訳ではない。その意味では「クラシックを殺したのはカラヤン」だけとは言えない。それについては、本書では何も言及されていなかった。

言えることは、本書の中でも繰り返し指摘されているように、大半の責任は我々一般聴衆の「クラッシク音楽を”癒し”の対象として聴く」姿勢に変って来ていること、クラシック音楽に対する移り気の姿勢にあること、これが現代のクラシック音楽の位置をおとしめた犯人であると言えるのではないかと感じた。



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