話す英語力と大学教育は別物(その1)



芥川龍之介の英語の教師は夏目漱石だった。「漱石先生にかかると深淵なシェイクスピア文学も殺風景な英文法のテキストだ」と反発しフランス語に転向した。フランス語の発音から連想して発表した作品が「河童」だったとの逸話がある。


この英文法中心の英語教育が明治の時代から今まで脈々として受け継がれている。海に囲まれた島国で欧州列強の侵略も受けず人的交流も希薄な中では、英語を聞く機会も話したり書いたりする機会もなく、書かれたものを読む以外に英語に接する手段がなかったのである。


国際化が進む中で、海外での会合、学会や立食パーティ、記者会見等に参加するチャンスが増えても、会話による意思疎通能力欠如のため、「末席に固まる黒いスーツ姿のモノ言わぬ集団」と揶揄されていた。これが日本の国際社会に対する発信力に乏しい原因となっている。


日本の今までの英語教育のやり方では、真の英語能力を身につけられないとして、今の高校学習指導要領では、英語の授業は基本的に英語で行うようになっているが現実には英語で授業を行っている高校が少ないという報告がある。無理はない。英語で講義出来る程の能力を持った教師が少ないからである。そんな教師をケナス訳では決してない。今までの的外れな英語教育の犠牲者なのである。


英語を話す能力を学校教育に求めようとするのが間違いである。どの国の人も、自国の言葉は乳児の頃から親や周囲の人の口真似の集積である。日本人でも外国語が話せるようになった人は、自分の意志で学校の課外活動の英会話グループに入ったり、民間の英会話教室、海外へ語学留学など外国語を話す環境に身を置いた人達である。これらの活動をしないで学校の授業だけで英語が話せるようになった人を私は寡聞にして聞かない。


これを無理に学校教育に求めようとするのが今までの英語教育だった。そのために、今までの間違った英語教育の犠牲になった英語を話せない先生が教えることになる。高校だけでは話せるようにならないので、年少の頃の話し言葉習得能力が乏しくなった年頃の大学教育に求めようとする。大学に入るためには試験を受ける必要があるので、受験のための英語教育になってしまう。これで外国語が自由に話せるグローバルな人材養成が実現する筈がない。


【以下、次号に続く】


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