今日読み終わった本―「報道被害」



今日読み終わった本:


『報道被害』 梓澤和幸   岩波新書 2007年1月刊


京都アニメーション放火殺人事件の犠牲者実名公表の可否問題に触発されて、図書館の閲覧棚から選んだ本である。普通は、時事問題に関わる書籍は発行日が古いと流行遅れで現実味がなくなるものだが、本書のテーマは、長年社会問題と提起されながら現代に引き継がれているだけに新鮮味がある。


但し本書は発行後12年を経ているだけに、引用されている例は松本サリン事件や桶川ストーカー殺人事件など古いものが多い。しかし、例としては古いものの現代の報道被害に共通する点は、被害者や容疑者、遺族に対する報道陣の「集中豪雨型取材」による肉体的・精神的・心理的影響である。最近は報道陣に加え、ネットやSNSの姿を見せない人達からの執拗な脅迫や中傷が加わっている。


その主な原因は、かっては「実名報道」は5W1Hの報道原則、国民の知る権利で正当化されていたが、逆に容疑者や犠牲者家族への人権侵害が指摘されるようになり、今では容疑者の加害事実の確定までは実名公表は禁止、家族の同意なしの被害者及び被害者家族の名前の公表は禁止されている。


いずれも報道被害を最小限に食い止める手段であるが、実名公表にはいつも報道関係者より強い要望が出る。


本書で弁護士である著者は「報道被害」を『テレビ、新聞、雑誌などの報道によって伝えられた人々がその名誉を毀損されたりプライバシーを侵害される人権侵害』のことと定義して解説を進めている。


これら人権侵害とメディアの報道・表現の自由の相反する主張の中で著者は、①被害救済制度の構築、②警察情報構造の変革、③商業主義に過度に傾斜するメディアの経営陣、編集幹部へのメス、④メディア内部に人権思想を浸透、の4点を提言しているが、メディアからは反論がありそうである。





愛犬をパンダに変身させる


パンダ犬.jpg


「貴方の愛犬をほんの2万円ちょっとでパンダに仕立てます」。こんなペットカフェが先月中国の成都で開店した。成都は世界自然遺産のパンダの保護区のある場所でパンダの聖地である。


ペットの犬の肢や耳、目の周りやボディの毛を白と黒に染め上げてパンダに似せるものである。「特に創造性に富んだものではない。一寸した新規なものを表現しようとしただけである」と21才のペットカフェのオーナーは話している。先月、ネットでこの商売を紹介すると、今では一日6070件の問い合わせがあると言う。


今のところは、直ぐに注文に結びつくのではなく、写真を撮りに押し掛ける人が多い。


染め上げる染料は輸入品を使いボディの表面に吹き付けるだけで、皮膚まで浸透させるものではない。一時的な好みを満足させれば良く、目的を達すればクリーニングして元に戻すサービスも行うとしている。


ホテル業界を含めて関心を呼んでいる商売だが、全てが前向きの姿勢ではない。動物愛護団体は避けた方が良いと反対の立場である。理由は、化学染料で犬を染めることは犬にとってはストレスの原因となり、犬の皮膚や鼻、目にアレルギーを起こさせるとしている。「動物を金儲けのために利用するとは許せない話である」と厳しい。


ネット上では「ペットに対する虐待行為」との書き込みもあり、「動物には優しく接してあげて欲しい」と訴えている。


出展:ロイター電子版(こちら英文)



「身の丈」発言は現実には正しい



英語の民間試験制度について、荻生田文部科学大臣は「自分の身の丈に合わせて勝負して貰えば」と発言し、教育基本法に謳う教育の機会均等に反すると猛反発を受け、発言撤回と謝罪に追い込まれたが、現実社会では正しい発言だったと私は思っている。


個人的には荻生田大臣は日頃の官僚的で上から目線の傲慢な考えや発言で好きではない政治家であるが、「身の丈に合った挑戦」というのは現在社会に存在する格差を認識した正論と捕えている。


立憲の安住国対委員長の「戦後焼け野が原から教育だけは平等でやっていこうというのが日本社会の最も優れた部分。教育の不平等こそ最も憎むべきものだ」に代表される批判は、野党や一部与党、多くのメディアや評論家の意見であるが、これは理想論であり現実的ではない。


確かに教育基本法は、「すべて国民は等しくその能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種・信条・性別・社会的身分・経済的地位又は門地によって教育上差別されない」と高々と謳っている。しかしこの条項の裏には、『但し、その教育を受けるに足る十分な財政的な裏付けがあれば』という重要な前提条件が隠れている。現実には「本人に向学心があり、能力があっても、教育を受けるためのオカネがあるかどうか」により差別されているのである。これが現実であり、荻生田大臣の発言もその延長線上にある。


我々世代の大学進学率は10%内外だった。焼け野が原の中で育ち、大黒柱の父親を戦争で亡くした母子家庭の若者が大多数で、「教育を受ける機会」は提供されていても、経済的な裏付けに欠けていたからである。


時代は変わった現在でも経済的な格差は引き継がれている。大都市と地方の教育環境の格差も厳然として存在する。その中では「身の丈に合った勝負」に挑まざるを得ない受験生がいるのは事実で、荻生田発言は決して批難されるべきものはなかったのである。


理想論や建前論をいくら展開しても問題解決にならない。格差が存在する現状を踏まえた上での受験制度の構築が急務である。


元はと言えば日本の英語教育の在り方が間違っているためで、この問題については別途本ブログで取り上げたい。








「身の丈」発言は現実には正しい


英語の民間試験制度について、荻生田文部科学大臣は「自分の身の丈に合わせて勝負して貰えば」と発言し、教育基本法に謳う教育の機会均等に反すると猛反発を受け、発言撤回と謝罪に追い込まれたが、現実社会では正しい発言だったと私は思っている。


個人的には荻生田大臣は日頃の官僚的で上から目線の傲慢な考えや発言で好きではない政治家であるが、「身の丈に合った挑戦」というのは現在社会に存在する格差を認識した正論と捕えている。


立憲の安住国対委員長の「戦後焼け野が原から教育だけは平等でやっていこうというのが日本社会の最も優れた部分。教育の不平等こそ最も憎むべきものだ」に代表される批判は、野党や一部与党、多くのメディアや評論家の意見であるが、これは理想論であり現実的ではない。


確かに教育基本法は、「すべて国民は等しくその能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種・信条・性別・社会的身分・経済的地位又は門地によって教育上差別されない」と高々と謳っている。しかしこの条項の裏には、『但し、その教育を受けるに足る十分な財政的な裏付けがあれば』という重要な条件が隠れている。現実には「本人に向学心があり、能力があっても、教育を受けるためのオカネがあるかどうか」により差別されているのである。これが現実であり、荻生田大臣の発言もその延長線上にある。


我々世代の大学進学率は10%内外だった。焼け野が原の中で育ち、大黒柱の父親を戦争で亡くした母子家庭の若者が大多数で、「教育を受ける機会」は提供されていても、経済的な裏付けに欠けていたからである。


時代は変わった現在でも経済的な格差は引き継がれている。大都市と地方の教育環境の格差も厳然として存在する。その中では「身の丈に合った勝負」に挑まざるを得ない受験生がいるのは事実で、荻生田発言は決して批難されるべきものはなかったのである。


理想論や建前論をいくら展開しても問題解決にならない。格差が存在する現状を踏まえた上での受験制度の構築が急務である。


元はと言えば日本の英語教育の在り方が間違っているためで、この問題については別途本ブログで取り上げたい。








間違った意味で使われる言葉



良く話題に乗る話で、日常使っている言葉で本来の意味と異なる、極端な場合は逆の意味で使用される言葉がある。「日本語の誤用ランキング」にいつも顔を出す言葉をいくつか拾い上げてみる。


役不足: (誤)本来の能力より重い(手に余る)仕事や役割

        を与えられる。

     (正)本来の能力より軽い仕事や役割を与えられ

        る。


確信犯: (誤)悪いことを承知して行う犯罪。

     (正)信念に基づいて正しいと思って行う犯罪。


姑息:  (誤)卑怯な状態

     (正)一時しのぎである状態


ハッカー: (誤)コンピュータに潜入して不正を行う人

     (正)コンピュータやインターネットに詳しい人


破天荒: (誤)豪快で大胆不敵な様子

     (正)誰も成しえなかったことをやること


他に、「失笑」とか「他力本願」など、挙げられてみれば気付かずに日常使っている誤用表現が周囲には沢山あることに気が付く。


これらに、最近は次の二つの言葉が仲間入りした。本来の意味から転じて次の意味になるようである。


説明責任』:説明責任を果たすと言いながら説明せずに雲隠れすること。時間の経過と共に人々が忘れてしまう頃にいつの間にかいずこからともなく現れて大きな顔をすること。実例、舛添元東京都知事、甘利元経済再生担当大臣・自民党選挙対策委員長など多数。


任命責任』:不祥事で大臣が辞任したり更迭されるごとに「任命責任は私にある」と言いながら何も責任を取らないこと。大臣辞任の都度コメントを求められた時の常用語。実例、特に名前を挙げるまでもなく誰もが直ぐに頭に浮かぶ人。