「身の丈」発言は現実には正しい



英語の民間試験制度について、荻生田文部科学大臣は「自分の身の丈に合わせて勝負して貰えば」と発言し、教育基本法に謳う教育の機会均等に反すると猛反発を受け、発言撤回と謝罪に追い込まれたが、現実社会では正しい発言だったと私は思っている。


個人的には荻生田大臣は日頃の官僚的で上から目線の傲慢な考えや発言で好きではない政治家であるが、「身の丈に合った挑戦」というのは現在社会に存在する格差を認識した正論と捕えている。


立憲の安住国対委員長の「戦後焼け野が原から教育だけは平等でやっていこうというのが日本社会の最も優れた部分。教育の不平等こそ最も憎むべきものだ」に代表される批判は、野党や一部与党、多くのメディアや評論家の意見であるが、これは理想論であり現実的ではない。


確かに教育基本法は、「すべて国民は等しくその能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種・信条・性別・社会的身分・経済的地位又は門地によって教育上差別されない」と高々と謳っている。しかしこの条項の裏には、『但し、その教育を受けるに足る十分な財政的な裏付けがあれば』という重要な前提条件が隠れている。現実には「本人に向学心があり、能力があっても、教育を受けるためのオカネがあるかどうか」により差別されているのである。これが現実であり、荻生田大臣の発言もその延長線上にある。


我々世代の大学進学率は10%内外だった。焼け野が原の中で育ち、大黒柱の父親を戦争で亡くした母子家庭の若者が大多数で、「教育を受ける機会」は提供されていても、経済的な裏付けに欠けていたからである。


時代は変わった現在でも経済的な格差は引き継がれている。大都市と地方の教育環境の格差も厳然として存在する。その中では「身の丈に合った勝負」に挑まざるを得ない受験生がいるのは事実で、荻生田発言は決して批難されるべきものはなかったのである。


理想論や建前論をいくら展開しても問題解決にならない。格差が存在する現状を踏まえた上での受験制度の構築が急務である。


元はと言えば日本の英語教育の在り方が間違っているためで、この問題については別途本ブログで取り上げたい。








「身の丈」発言は現実には正しい


英語の民間試験制度について、荻生田文部科学大臣は「自分の身の丈に合わせて勝負して貰えば」と発言し、教育基本法に謳う教育の機会均等に反すると猛反発を受け、発言撤回と謝罪に追い込まれたが、現実社会では正しい発言だったと私は思っている。


個人的には荻生田大臣は日頃の官僚的で上から目線の傲慢な考えや発言で好きではない政治家であるが、「身の丈に合った挑戦」というのは現在社会に存在する格差を認識した正論と捕えている。


立憲の安住国対委員長の「戦後焼け野が原から教育だけは平等でやっていこうというのが日本社会の最も優れた部分。教育の不平等こそ最も憎むべきものだ」に代表される批判は、野党や一部与党、多くのメディアや評論家の意見であるが、これは理想論であり現実的ではない。


確かに教育基本法は、「すべて国民は等しくその能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種・信条・性別・社会的身分・経済的地位又は門地によって教育上差別されない」と高々と謳っている。しかしこの条項の裏には、『但し、その教育を受けるに足る十分な財政的な裏付けがあれば』という重要な条件が隠れている。現実には「本人に向学心があり、能力があっても、教育を受けるためのオカネがあるかどうか」により差別されているのである。これが現実であり、荻生田大臣の発言もその延長線上にある。


我々世代の大学進学率は10%内外だった。焼け野が原の中で育ち、大黒柱の父親を戦争で亡くした母子家庭の若者が大多数で、「教育を受ける機会」は提供されていても、経済的な裏付けに欠けていたからである。


時代は変わった現在でも経済的な格差は引き継がれている。大都市と地方の教育環境の格差も厳然として存在する。その中では「身の丈に合った勝負」に挑まざるを得ない受験生がいるのは事実で、荻生田発言は決して批難されるべきものはなかったのである。


理想論や建前論をいくら展開しても問題解決にならない。格差が存在する現状を踏まえた上での受験制度の構築が急務である。


元はと言えば日本の英語教育の在り方が間違っているためで、この問題については別途本ブログで取り上げたい。