話す英語力と大学教育は別物(その3)


【昨日の続き】

文藝春秋新年号の藤原正彦氏による「英語教育が国を滅ぼす」を引用した昨日のブログの続きである。


この寄稿文の中で氏は、「ロンドン駐在のある商社マンが取引先の家に招かれ、“縄文式土器と弥生式土器はどう違うのか”とか“元寇は二度あったが、二つはどう違うのか”と質問され、答えられないと知的につまらない人と思われて次から招待されなかった」とか「私自身ケンブリッジ大学で、漱石の“こころ”の中に出てくる先生の自死と三島の自死とは関係があるのか」と聞かれたことがある。「結局のところ、“教養と人間の魅力”なのです。グローバル社会の中で生き抜くために、若い内に鍛えるべきは英語ではない。読書を通じて知的充実に励むことなのである」と力説し、「語学が出来るとだんだん馬鹿になり、教養を積む妨げとなる」とまで言い切っている。


一見、正論のように見えるが間違った理想論である。最近スポーツ選手や芸能人を含めて日本語に堪能な外国人をテレビ番組でも良く見受けるが、皆がみんなかかるハイレベルな教養を積んだ結果日本語が話せるようになったのかというと疑わしい。「藤原先生、“若い内に鍛えるべきは英語ではない”と断定する前提が間違っていませんか」と言いたい。


この寄稿文では、英語を喋るには明治以来綿々として継承されて来た文法中心の教育法が前提となっている。藤原氏をもってしてもこの伝統的・固定的な信念に呪縛されている。この伝統的教育を経た日本人の英語力がどうであったかは結果が示している。OECDの調査を待つまでもなく日本人の自意識として、国際社会の認識として先刻承知の事実である。


今回の藤原論文は、この前提の誤りによってその結論は「英語の勉強は無駄だからこれを教養を積む時間に充てろ。でないと日本人の知的水準は益々低下する」として題名の「英語教育が国を滅ぼす」となったものである。「国際社会の中で、対話による日本の発信力を自由に展開させ得るグローバルな人材養成」はムリと諦めた雰囲気がある。それで良いのか?

【以下次号】




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