話す英語力と大学教育は別物(その4)



【昨日の続き】

文藝春秋新年号の藤原正彦氏による「英語教育が国を滅ぼす」では、明示の表現はないが、「モノにならない英語教育はヤメてはどうか」と言いたげな主旨である。元々の契機となった大学入試改革案に英語の出題は不要とまでは言っていない。しかし残念ながら、氏の主張する人間形成の場である大学に入るための試験に英語はどう取り扱うべきかについての記述はない。これでは中高校生がどうすれば良いか迷うだけである。


話は飛躍するが、中学校で習う数学に因数分解というのがある。その習得のため結構時間と労力を使ったものだが、私が社会の第一線に出て仕事をしてきた50年の間に、因数分解が必要な場面には一度も出会うことはなかった。ムダな努力がモノにならなかった一例である。まさに藤原氏の言う時間を浪費してモノにならない英語と同様である。しかし、大学に入るための試験には習得しておかねばならない知識であった。


英語教育も大学に入るためのツールとして残しておけば良い。そのためだけなら、「小学初年度から週3時間もの英語学習」を減らして「教養を高めるための読書」の時間に充てられる。中高生の英語学習の目標にもなる。但し、日本の英語教育目標から「話せる」とか「グローバルな人間形成」という誇大妄想的で実現不可能なスローガンは外すべきで、「入試のための英語」と位置付ければ良い。これで従来の日本の英語教育の犠牲となった全国に万単位で存在する「英語を話せない」英語の先生の救済にもなる。つまり、「話す英語」と「学校教育の英語」は別物とする従来の英語教育方式からコペルニクス的発想転換が必要である。


藤原氏の言うように、「教養を積めば英語は話せなくても良い」とは議論の飛躍である。2回の元寇の意味を知っていたにせよ、問われて英語で答えられなければ結局「この人は教養がない」と思われてしまうのと同じである。折角の教養を開陳出来ず、ご本人はフラストレーションを感じるだけである。


では「話せる英語」を実現するにはどうすれば良いかを考えて見たい。


【以下次号】




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