一年の幕引き



「令和」と言う元号がまだに見つかないままにその元年が暮れた。昨年の今頃は、多分次の正月が迎えられる確率は低いと思っていたが、予想が外れてまたいたずらに年輪を重ねることになる。東京五輪が決定した時も、自分が存在しない将来の話として無関心だったが、どうも開幕の喧騒期に居付いている可能性が濃厚になって来た。


この世に存在しているかいないかに思いが及ぶのは、今年には一緒に勉強した友人、同じ職場で仕事をした同世代の知人・友人など5人が逝ってしまった年だったのである。我がXデーがすぐ近くに忍び寄っている実感がある。


そのためか、新しい年を迎える心構えに身が入らない昨日・今日であった。従来なら家の中が済まなかったが、今年は室内の掃除機がけだけで済ましてしまった。実は一昨日、障子紙の貼り替えに着手したものの1枚の作業が終わらない内に腰に激痛が走って頓挫するなど、加齢による体力の問題がある。カミサンから、「いつもは換気扇を掃除してくれたのに、その元気も失せたみたい」と言われてしまった。


窓ガラスくらいは拭いて清らかな新年を迎えようと、掃除道具を引っ張り出したまでは良かったが、どんよりした空から雨が落ち、冷たく強い風すら吹き出したのをこれ幸いと取り止め新年に先送りした。かっては、正月元旦に洗車したこともあったことを思い出して、それを口実にしたのである。


パソコンの故障で新調したWindows10の機能低下により年賀状作成もやっつけ仕事になり不満足ながら何とか受付締切までに投函した。今年は壊れたのはパソコンの他にプリンターや自転車、過度のウォーキングで交互に使用していた3足の靴を一挙に履き潰したなど身の回り品にも旅立だれた年であった。


振り返ってこの1年は過去3回の入院経験があったにも関わらず無事に済んだのが何よりのことであった。ただ、最近の安倍政権がぼろぼろになり、首相ご自身にやる気が見られなくなったように長い間生き続けていると覇気がなくなる。


明日からの新年は、ロウソクの火が最後には大きく明るく燃え上がるように、気分的にも明るい年になることを願っている。



気味の悪い新しい公害物質



「人体への影響が不明な気味の悪い物質が大気に混じって地上に降り注いでいる」。将来への警告のような脅迫めいた記事が英国のガーディアン紙に登場した。


その正体は『マイクロプラスティック』で既に海中生物に深刻な悪影響をもたらしている実態が世界中で報告されている。そのマイクロプラスティックがロンドンで最大濃度を観測されたというのである。ガーディアン紙では“独占記事”と前置きして、「ロンドンでは今までの水準を大幅に上回る量が見舞われている。ただその微粒子を吸い込むことによる健康への影響は不明」と記載しているが、記事全体では不気味だが早急な調査研究が必要と警告している。


マイクロプラステイックは、北極の氷雪や高山、河川や海底深くにまで観測され、地球全体を汚染していると見られている。今回の調査で発見された量がロンドンで過去最大を示したことが科学者達を驚かせた。中国東莞市の20倍、パリの7倍、ハンブルグの3倍を観測した。測定方法が同じでないこともあるが、この大きな差の原因は不明である。


プラスティック製品は毎年335百万トン市場に出てくる。衣類や包装材料など生活必需品が大部分を占める。ここから発生するマイクロプラスティック粒子はロンドン中心部の9階建てビルの屋上で採集された粒子量を計測したものである。


自動車の排ガスや工場からの排煙からの公害粒子が健康に悪影響を及ぼしていることは良く知られている。大気汚染による人体の内臓器官や細胞に重大な影響を及ぼしている報告書が2019年初頭に報告された例もある。


しかし、大気からマイクロプラスティック粒子の吸引や食品・飲料水から摂取していることによる健康への潜在的影響は解明されていない。マイクロプラスティックによる魚介類の大量死が人体への悪影響に無関係な筈がないとして、科学者は緊急課題として取り組みを始めている。


出典:ガーディアン電子版(英文こちら









滋賀医大管弦楽団第71回定期演奏会に出席



毎年6月と12月に開催されている滋賀医科大学管弦楽団の定期演奏会が今回は年の押し詰まった1228日に開催され参加した。地元では数少ないコンサートだけに、殆ど毎回欠かさず出席している。


滋賀県でのクラシック音楽のコンサートは大津にある琵琶湖ホールで良く開催されているが、自宅から遠いきらいがあって足が遠のいている。京都に住んでいた時は、市バスでも30分以内に2ヶ所のコンサートホールがあった手軽さに慣れていたので、大津まで出かけるのはつい億劫になる。それに高齢になり夜中の外歩きは医者から自粛を勧告されているのが輪をかけている。その点、滋賀医大管弦楽団の演奏会はお隣の栗東市のホールで開催されている上、開演時刻も午後2時頃とあって出席しやすい。入場無料という利点もある。


開演前にロビーで一部の団員によるロビー・コンサートがあり、今回は私の取り分け好きなベートーベンの弦楽四重奏曲第4番の第一楽章を披露していた。何故かトクをした気がした。


今回の本番の曲目は、ベートーベンのエグモント序曲、ビゼー「アルルの女」第二組曲、フランクの交響曲二短調という馴染み深い曲を並べたためか、年末というのに多数の聴衆が押し掛け、いつもは空席の目立つ舞台袖のかぶり付き席まで満席だった。


指揮者は滋賀医大OBの岩井一也氏で、私が出席し始めた20年前より替わらない常任指揮者である。この指揮者は少し早めのテンポで展開するので、今回のプログラムではいずれも歯切れの良い快適なテンポで好演だった。「アルルの女」組曲はフルートが重要なパートを占めているが、今回のフルートは医学部3回生の現役女性で特に音色が美しく、急ぎ過ぎない落ち着いた名演で聴衆を魅了した。この楽団は以前から木管に達者な人たちが多い。


私のお目当てはフランク交響曲で、今回の案内状の郵送を受けた時から期待していた。私はシベリウスの第二交響曲のようにスケールの大きいゆったりした曲が好みで、フランクもこれに類する。滋賀医大響はメンバーも多く、極力全員をステージに上げる必要があるため、毎回ブラームスやドボルザークのような大曲を取り上げる。モーツアルトのような小編成の曲はやってくれない。それなりに力が入っていて、毎回力演が楽しめる。今回も期待に違わない演奏で満足したひとときであった。




スマホ依存症



明け方までの雨が止み、空一面に青空が広がって来たので、いつもの時刻に朝のウォーキングに出かけた。普段なら雨の後は用心して折り畳み傘を持参するところだが、余りの鮮やかな青空に騙されて傘を持参しなかったのが誤りだった。


自宅を出て丁度半分の50分の地点で急に空一面が真っ暗になり、霰まじりの雨が降り出した。農道のど真ん中で雨宿りするところもない。引返すのも先を行くのも同じ距離である。着ていたジャンパーがしっとり雨に濡れ渡ったところで、農家の農機具収納庫があり、そこで暫く雨宿りをした。


暫くして雨も小降りとなり、空が明るくなって来たので再び歩き出した。そこから先は河川敷の堤防の道が続き、そこから先は雨宿りするところがない。明るくなった空は再び厚い雲に覆われ、また雨が降り出した。今日は、5分毎に急変する天候である。止む無く30分、冷たい雨に濡れて住宅街に入り、コンビニの庇に逃げ込んだところで、家族に電話して出迎えを頼んだ。


ここからが今日のブログの本題である。娘の車が来るまでの間、コンビニ前には次から次へと車がやって来て店の前に駐車するが、奇妙なことにどの車からもドライバーが出て来ない。コンビニまで来ていながら誰も店に入らないのである。


車の中を覗くとドライバーは一様にスマホに向かっていた。特に携帯で電話している様子もない。時刻は午前10時前。私の目の届くコンビニ前に駐車している7台の車の中は一見サラリーマン風の若い男性ばかりである。会社が始まって仕事に出たばかりの筈だが、それが全てコンビニの駐車場でスマホをいじくっている。皆が業務でスマホを操作している訳でもなかろう。


私の現役時代は、たまに取引先や官庁訪問で外出することがあったが大部分は内勤だった。国内営業マンは外歩きが仕事だったがスマホがなかった当時、顧客訪問の間はどのように過ごしていたか。


我が娘などは、長い列を作って長時間待つのは苦にならないと言う。スマホがあるからである。心配なのは、その間に電池の消耗らしい。


「ながらスマホ」という言葉が広まっている。雨宿りで家族の出迎えを待っている間にスマホに憑りつかれている人たちのことを考えていた。




議員の品格



昨年73才で亡くなった岸井成格という毎日新聞政治部主筆の人が書いた「議員の品格」と題する著書がある。本来なら、国会・地方自治体議員に読ませたい本だが、内容は「今の議員というものはこの程度の人格だよ」と一般大衆に説明しているもので、殆どの国民には先刻承知の内容である。最後に、「議員とはかくあるべき」だと指摘する下りはあるが、肝心の議員先生連中は、本の題名から議員を貶めるものとみなされて読んでくれていない筈である。


恐らく今の議員先生方は、本来議員が身に着けているべき高邁な品格は持っていないと自覚しているに違いない。周囲の議員連が似たような共通点を持っていることに安心感があるためである。


かっての浅沼社会党書記長のように、アパートに住み、自転車で議会に登庁するのが議員としての姿勢とまでは言わない。「議員の品格」との言葉から言えば批判的な見方もある。しかし、国民の中に溶け込んでいる生活には大衆からの信望も厚かった。


逆に、今の議員には選挙期間中の謙虚な言動が掌を返したように激変するのは誰でも知っている。議員の立場に立つと得られる特権、権威、発言力が大きいためである。その姿を改めて実感したのが、IR汚職疑惑で特捜部に摘発された自民党の秋元議員の逮捕である。


逮捕前の記者団へのコメントで、「はした金はもらわねえよ、あり得ねえよ。数百万円で国会議員をやるか?ほんとにバカたれ。はじめて俺に容疑の紙がくるんだから、じっくり読んでやるよ」「地検ははしゃぎ過ぎだ。こんなことで身柄拘束しやがって。徹底して戦ってくるわ」と話した。新聞記者の誇張表現ではない。テレビで本人の生の言葉として報道されている。あるメディアではヤクザ議員と表現されている。


この口調が国民を代表する国会議員としての品格を持つ人物なのか。選挙活動期間中にこんな口調で選挙民の支持を得た筈はない。ということは選挙民を騙したことになる。「こんなことで身柄拘束」とは「数百万円程度の金で」の意味だろう。この程度の金額では罪を問う方がオカシイというのが議員感覚なら、国民感情とは遥かに次元の異なる存在である。


自派の議員だけに二階幹事長は、捜査の進展によっては復党もあり得ると答えている。日本の議員とはこんなレベルの人物の集まりなのである。




疑惑隠しは外国にもあり



誰が考えても権力者が関与した明らかな事実を臆面もなく隠し、嘲笑を買うような釈明を続けて道化師の役割を演じ続けるのは何も我が国の国家の中枢だけではない。海外のあちこちの政府機関でも見られる。


最近、疑惑を抑え込んで沈静化されたと思っていた事件が、下手な細工をしたために再び蒸し返えされ国際的な注目を浴びているサウジアラビアのカショギ氏謀殺事件がある。


カショギ事件とは、昨年10月、サウジ政府及びムハンマド皇太子に批判的だったジャーナリストのカショギ氏が、トルコ・イスタンブールのサウジ総領事館で殺害された事件である。トルコ当局によると、カショギ氏は館内で絞殺され、遺体はバラバラに切断された。犯行にはサウジ関係者15人が関わったとされる。同氏の遺体は現在も見つかっておらず、強力な硫酸で溶融されたとの憶測すらある。


米中央情報局(CIA)と国連(UN)の特別報告者はいずれも、ムハンマド皇太子が事件に直接関与していたと結論付けているが、サウジ政府は皇太子の関与を断固否定している。


サウジの検察当局は23日、5人に死刑判決が言い渡されたと発表した。ただ、事件は計画的でなかったとの結論が出され、ムハンマド皇太子の元側近2人は無罪または不起訴となった。


誰が見ても、「見え見え」の措置で、海外メディアは早速噛みついている。フランスAFP通信は『今回の判決は、サウジの首都リヤドでの来年の20か国・地域(G20)首脳会議(サミット)主催を控える中、国際社会でのイメージ回復を狙い、事件に幕を引こうとする同国の取り組みを浮き彫りにした』と指摘。


ワシントンポストは;

  • それでも我々は、カショギ事件の回答はまだ得ていない。
  • カショギ裁定は責められるべきである。
  • サウジのカショギ判決は、正義に対するごまかし。

と24日付で3本の記事を並べている。


一方、NYタイムズも、『サウジの死刑判決は、カショギ事件に対する疑惑解消の試みに失敗した。国際社会の専門家が事件の裏にあると見ているサウジ皇太子を隠蔽しようとするサウジの姿勢は糾弾さるべきである』とこぞって非難している。世間は既に先刻承知なのである。


安倍官邸も恥ずべき疑惑対応を単なる国内のコップの中の嵐と軽視していると国際社会で酷い目にあう。国内の大使館など外国公館が見ているし、外国メディアの特派員もいる。「桜」問題も本国に逐一報告されているし、海外紙にも取り上げられていることを承知すべきである。



年の総決算の12月



12月はその年を振り返る総まとめの月である。「今年の漢字」とか「今年の創作四字熟語」などを通じて、その年の世相を反映させる手段もある。今年活躍したスポーツ選手とか芸能部門での大賞など数多くある。海の向こうでも、オックスフォード辞典の「今年の単語」や米紙TIMEの「今年の顔」など長年の歴史を持っている。


暗いニュースをまとめた総決算もある。「国境なき記者団」では、今年殺されたジャーナリストを発表した。僅かに救われることは、犠牲者は16年振りに少ない数だったと報じたことで、それでも12月1日現在で49名、他に57名が取り調べ中で389名が不法に刑務所に拘留されているとある。


他にも我が国で「ブラック企業大賞」というのも発表された。労働環境などに問題があった企業を選出し、皮肉を込めて賞を贈る企画で、今年は8社1自治体がノミネートされ、大賞は「三菱電機」で、二度目の受賞となった。


『特別賞』は、再三にわたる労基法違反が問題視された「電通」と、残業代未払い問題で話題となった「セブン-イレブン・ジャパン」の2社が受賞。『Web投票賞』はパワハラ問題で注目された「楽天」が、『#MeToo賞』は市の幹部が女性記者に対し性暴力をふるう事件が起きた「長崎市」が受賞した。


ただ、このブラック企業大賞は「ブラック大賞企画委員会」という組織がとりまとめたものとされているが、企画委員会の構成、選定基準、集計手段などが明確ではない。


「ブラック企業」には長崎市のような公的組織も含まれるのであれば、事実を隠蔽し、証拠書類を廃棄処分し、公文書を改竄し、国会で虚偽の回答を繰り返し、説明責任も果たさず、国会運営もないがしろにするどこかの公的機関も当然ノミネートされるべきである。






OD錠という薬



私は毎日4種類の薬を服用している。朝食後と夕食後に各1種類、就寝前に2種類で、私の年齢にしては標準的な量と言われている。その中に薬の名前の後ろに「OD錠」と記載されているのが2種類ある。当初は単なる薬の固有名詞と思って注意を払っていなかった。ところが、これが薬の飲み方と知ったのは最近である。


ODとは“Oral Disintegration”の略で、「口の中で溶ける薬」の意味という。粉薬とか錠剤は昔から水と一緒に飲むものと思っていたが、OD錠は水なしで飲めるので、手近に水が無かっても困らない利点がある。他にも、呑込むのが苦手な子供や呑込みに障害が出てきた年寄りにも支障がない便利さがある。私が服用しているOD錠の内1種類は水と一緒に飲むことを禁じているものまである。


飲み方は、飴玉をしゃぶるように口の中で溶かして行くのと、かみ砕いて細かくして溶けやすくするものがあり、私が水と一緒に飲まないよう注意されている錠剤は下顎と舌の裏の間に放り込むよう薬剤師から指導を受けた。非常に溶けやすく、舌の裏に入れると瞬く間に溶けてしまう。


ただ、今まで薬というものは水か温水と一緒に飲んで胃の中に放り込んで初めて効くものと思っている習慣がついているので、口の中だけで消えてしまう成分は本当に体内に吸収されるのか不安がある。特に降圧剤など心臓機能に効果を及ぼさねばならない成分が、口の中で消えてしまって本当に目的の患部に作用するのか不信感すらある。


最近の日本人、特に高齢者は街の診療所に通うのは病気を治したり健康状態を診断するのではなく、単に薬を貰うためだけに通院している。同じ診療所でいつも同じ人間が出会うためいつか馴染みになり、「そう言えば最近あの人を見かけないね。どこか体が悪いのかしら」など、本来の診療所の機能を度外視した表現で話し合う程で、診療所とは病人が行くところではない様相がある。


飲み続けている薬はいつ辞めて良いか医師は教えてくれない。効いているのかどうか無関係にただ続けることだけが義務付けられている。




ヴィクトリアの滝が消える!

ヴィクトリア滝.jpg


アフリカ南部ジンバブエとザンビアの国境にあるヴィトリアの滝は、米国とカナダの国境にあるナイアガラの滝、南米アルゼンチン・ブラジル・パラグワイ3ヶ国にまたがるイグワスの滝と共に世界の3大滝の一つで世界遺産に登録されている。そのヴィクトリアの滝から豊富だった水量が減少し、枯渇の危機に晒されている。


私はこの3つの内、ナイアガラとイグワスの滝には行ったことがあるが、ヴィクトリア滝は知らない。4kmの幅を持つイグワスには及ばないが、最大落差は108mはイグワスの82mよりも高い。年間最大流量の季節では、そこから立ち昇る水煙が800mの高さまで達し、50km先の遠方からも見えると言われていた。


ところが何年も続いた干ばつの影響で、滝はほとんどが弱々しい小川のような流れと化し、かつて生い茂っていた豊かな草木は枯れ果てた。

世界食糧計画によると、ジンバブエだけでも7百万人以上が飢えにさらされ、アフリカ南部ではさらに4500万人が飢えのリスクに直面している。これらの現状は、気候変動の影響を物語ると同時に、温暖化ガスの排出量が最も少ない地域が、気候変動の最も大きな影響を受けている現実を見せつける。アフリカ諸国が排出する温暖化ガスは、全体のわずか1%前後にとどまると言われる。

ここに、世界で注目を集めたスウェーデンの少女グレタ嬢の名声に隠れてはいるが、同じ環境問題に取り組む16才の少年がいる。スペインのマドリードで開かれた第25回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP25)に招聘され、「私たちにはまだ未来がある」「私たちはこの干ばつで、現実を目の当たりにしている。私たちの未来はどうなるのか、10年後、15年後には、もっと大きな影響を受けるだろう」と危機感を示した。

しかし富裕国と違ってアフリカ諸国は、気候変動に備えるための資金力も組織力もない。現地の専門家によると、干ばつや熱波は今後も続き、今年3月にモザンビークとジンバブエを襲ったような大型サイクロンの勢力は一層強まり、ヴィクトリアの滝がほぼ底を突きかけたような極端な水不足は3倍の頻度で起きるようになると予測している。

食料不足で飢餓にあえぐ何百万もの人々は、環境問題への取組みに消極的な先進国諸国の身勝手な姿勢の犠牲になっていたのである。

出典:CNNニュース(英語こちら


稀代の顧客無視ソフト「筆ぐるめ26」



現役時代はメーカーに勤めていた。営業・管理畑だったが、全社に“User friendly”の姿勢を常に叩き込まれていた。つまり「顧客志向」である。それがメーカーの常識と思っていたが、これを全く無視した製品を買わされて難儀している。年賀状作成ソフトの「筆ぐるめ26」である。


元々、以前のパソコンにもバージョンの古いものが入っていて便利に使っていたのだが、そのパソコンが壊れ、新しい器械に買い替えた時、何とか以前のデータを苦労して引っ越しをした。幸い大事な住所録は何とか引き継ぎ出来たようだが、年賀状のデザインやレイアウトは移転されなかったので新しく作成を試みた。


ところがバージョンのグレードアップは結構だが、機能の拡大に対応する操作説明がおろそかになっている。当初は新しいパソコンに組み込みされていても、「筆ぐるめ」や「筆まめ」の分厚い独立した取扱説明書が提供されていた。今はそれが省略されて全て電子マニュアルに置き換わっている。それはそれで結構だが、「筆ぐるめ26」では、マニュアルに書かれてある画面が実際の器械には表れない。つまり現実の器械はマニュアルに対応していないのである。


具体的には、賀状の裏面に自分の差出人の欄を入れたかったが、1週間格闘しても入らない。実際には表面で差出人のデータを登録する必要があったのだが、マニュアルにはその指示がないのである。


それ以前に「筆ぐるめ」にはユーザーの苦情が集中している「遅い立上り」にある。私のパソコンで実際にストップウォッチで計ったら3481かかった。ネットでソフトのメーカーの回答の中に、「ソフトに問題があるのではなく、予め器械にインストールしたパソコン側に問題があるのかも」と突き放した回答があった。


年賀状の通信面に差出人情報が入れられない、具体的には「差出人の住所と名前の文字の大きさが変更出来ない」問題を解決する努力を1週間続けたが不発に終わった。


年賀状発送受付締切期限が迫っている。今年は「筆ぐるめ」での作成を断念し、ワードのよる賀状作成で対処しようと思っている。


「筆ぐるめ26」は稀代の欠陥ソフトであった。このソフト代金がパソコンの値段に入っていたのかと思うを腹立たしい。



今年の創作四字熟語



住友生命で毎年その年の世相を反映した「創作四字熟語」を広く募集し、12月中旬に発表している。昔から広く伝承され親しまれた四字熟語になぞらえてその年の世相を反映するよう表現したもので、いわば古典四字熟語の替え歌のようなものである。私の好きな企画でかっては応募したこともある。


選者は毎年歌人の俵万智氏一人で、芥川賞のように文芸大家が協議したものではない。今年で丁度30回目、応募総数は過去最多の19,383作品が寄せられたという。私は募集開始日と締切日を失念していたため応募しなかった。


今年の作品応募者の内訳は、男性86.9%、女性13.1%と何故か圧倒的に男性優位である。年代別では40才台が54.8%、次いで60才以上が20.2%で応募者の半数以上が40才台で占められている。


その結果選ばれた今年の創作四字熟語のベストテンは;


  • 国祭令和 (元の言葉は「国際平和」)
  • 英語延定 (同、英語検定) 民間業者による採点延期
  • 茫然城失 (同、茫然自失) 首里城消失のこと
  • 考齢運転 (同、高齢運転)
  • 変幻税率 (同、軽減税率)
  • 深夜閉業 (同、深夜営業) コンビニの営業時間見直し
  • 右英左英 (同、右往左往) 英国EU離脱騒動
  • 電池創造 (同、天地創造) ノーベル賞の吉野氏
  • 一心桜体 (同、一心同体) ラグビー日本代表の活躍
  • 一機一風 (同、一喜一憂) 携帯小型扇風機の流行

こうして眺めると、今年の特徴は伝統的な元の言葉をもじった表現が大幅に後退し、マスコミなどが多用する現代四字単語になぞらえたものが幅を利かせていることが判る。応募者の半数以上が40才台であるところから、伝統的な熟語そのものが忘れられようとしている印象があり危機感すら覚える。


元々の創作四字熟語の主旨は、伝統的な熟語の応用にあった筈で、今年の選出結果は従来の路線の転換を示す印象を受けた。


話す英語力と大学教育は別物(その5)


【昨日の続き】

昨日の『「話せる英語」を実現するにはどうすれば良いか』の続きである。


エジプト」からイラクへ直行便があった平和な時代に社用出張でカイロからバグダッド行きのエジプト航空に乗り込んだ時の話。機内には頭の先から足首まで黒い衣服に包んだ男ばかり40~50人の団体がいた。当時盛んだったエジプトからの出稼ぎ労働者である。


ベルト着用解除になって暫くして、男性パーサー2人が手分けして乗客に入国カードを配り始めた。団体一人一人には手渡さず話しかけてパーサー自身が各自の名前、生年月日、住所、入国目的などを書きつけた後で手渡している。黒衣の男達は読み書きが出来なかったためである。しかし会話は自由に出来る。「話す」には学校教育は必要ないことが判る。江戸時代に日本へ来訪した外国人が日本の識字率の高さに驚嘆した事実はいろんな文献に残っているが、それでも読み書きが出来なかった人が多数いたのと同様である。

                                                                                                

人間が話せるようになるのは何と言っても母親の力が大きい。産まれた直後のまだ目が見えない時から母親は赤ちゃんにのべつまくなしに話しかける。赤ちゃんが返事出来ないことを承知で話続ける。赤ちゃんが反応して笑い顔でもするようになると、益々勇気づけられるのか話続ける。その内に、周囲から赤ん坊に声をかける人が増えて、言葉のシャワーを浴び続ける。やがて、赤ちゃんは自分でも真似をして言葉を口に出すようになる。


要するに、話し言葉は真似ることから始まっている。ただ赤ちゃんは音を聞き分けたり真似をすることにかけては驚嘆すべき天分の能力があるが大人はその能力が低下している。自然に身につく能力は期待出来ない代わりに、真似をした表現を執拗に繰り返すことにより強制的に体に覚えさせることは出来る。


【以下、「いずれその内に」続く】


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【追記】このテーマは暫く続きそうだが、あまり同じテーマの繰り返しではくどくなりブログ記事がマンネリ化するきらいがある。「その内に続く」としたのは、梓川河童の管理者の気分によりテーマに変化をもたすもので、ブログとは本来そうしたものである。









話す英語力と大学教育は別物(その4)



【昨日の続き】

文藝春秋新年号の藤原正彦氏による「英語教育が国を滅ぼす」では、明示の表現はないが、「モノにならない英語教育はヤメてはどうか」と言いたげな主旨である。元々の契機となった大学入試改革案に英語の出題は不要とまでは言っていない。しかし残念ながら、氏の主張する人間形成の場である大学に入るための試験に英語はどう取り扱うべきかについての記述はない。これでは中高校生がどうすれば良いか迷うだけである。


話は飛躍するが、中学校で習う数学に因数分解というのがある。その習得のため結構時間と労力を使ったものだが、私が社会の第一線に出て仕事をしてきた50年の間に、因数分解が必要な場面には一度も出会うことはなかった。ムダな努力がモノにならなかった一例である。まさに藤原氏の言う時間を浪費してモノにならない英語と同様である。しかし、大学に入るための試験には習得しておかねばならない知識であった。


英語教育も大学に入るためのツールとして残しておけば良い。そのためだけなら、「小学初年度から週3時間もの英語学習」を減らして「教養を高めるための読書」の時間に充てられる。中高生の英語学習の目標にもなる。但し、日本の英語教育目標から「話せる」とか「グローバルな人間形成」という誇大妄想的で実現不可能なスローガンは外すべきで、「入試のための英語」と位置付ければ良い。これで従来の日本の英語教育の犠牲となった全国に万単位で存在する「英語を話せない」英語の先生の救済にもなる。つまり、「話す英語」と「学校教育の英語」は別物とする従来の英語教育方式からコペルニクス的発想転換が必要である。


藤原氏の言うように、「教養を積めば英語は話せなくても良い」とは議論の飛躍である。2回の元寇の意味を知っていたにせよ、問われて英語で答えられなければ結局「この人は教養がない」と思われてしまうのと同じである。折角の教養を開陳出来ず、ご本人はフラストレーションを感じるだけである。


では「話せる英語」を実現するにはどうすれば良いかを考えて見たい。


【以下次号】




話す英語力と大学教育は別物(その3)


【昨日の続き】

文藝春秋新年号の藤原正彦氏による「英語教育が国を滅ぼす」を引用した昨日のブログの続きである。


この寄稿文の中で氏は、「ロンドン駐在のある商社マンが取引先の家に招かれ、“縄文式土器と弥生式土器はどう違うのか”とか“元寇は二度あったが、二つはどう違うのか”と質問され、答えられないと知的につまらない人と思われて次から招待されなかった」とか「私自身ケンブリッジ大学で、漱石の“こころ”の中に出てくる先生の自死と三島の自死とは関係があるのか」と聞かれたことがある。「結局のところ、“教養と人間の魅力”なのです。グローバル社会の中で生き抜くために、若い内に鍛えるべきは英語ではない。読書を通じて知的充実に励むことなのである」と力説し、「語学が出来るとだんだん馬鹿になり、教養を積む妨げとなる」とまで言い切っている。


一見、正論のように見えるが間違った理想論である。最近スポーツ選手や芸能人を含めて日本語に堪能な外国人をテレビ番組でも良く見受けるが、皆がみんなかかるハイレベルな教養を積んだ結果日本語が話せるようになったのかというと疑わしい。「藤原先生、“若い内に鍛えるべきは英語ではない”と断定する前提が間違っていませんか」と言いたい。


この寄稿文では、英語を喋るには明治以来綿々として継承されて来た文法中心の教育法が前提となっている。藤原氏をもってしてもこの伝統的・固定的な信念に呪縛されている。この伝統的教育を経た日本人の英語力がどうであったかは結果が示している。OECDの調査を待つまでもなく日本人の自意識として、国際社会の認識として先刻承知の事実である。


今回の藤原論文は、この前提の誤りによってその結論は「英語の勉強は無駄だからこれを教養を積む時間に充てろ。でないと日本人の知的水準は益々低下する」として題名の「英語教育が国を滅ぼす」となったものである。「国際社会の中で、対話による日本の発信力を自由に展開させ得るグローバルな人材養成」はムリと諦めた雰囲気がある。それで良いのか?

【以下次号】




話す英語力と大学教育は別物(その2)


前回同一タイトルでこのブログを更新し、「以下次号に続く」と記載しながら一向に続くことなく一ヵ月が経過した。理由はその直後、共通テストが英語だけでなく、国語・数学まで当初の記述式が突然延期になり目標がなくなったためである。また「桜」問題で次々と疑惑が提起され、関心がそちらに向かったためもある。ところが、文藝春秋最新号に藤原正彦氏の「英語教育が国を滅ぼす」との寄稿を読んで、横着を決め込んでいた先のテーマに関連するので先を続けることにする。


藤原正彦氏と言えば著名な数学者であり著述家でもある。文藝春秋の巻頭言にも寄稿していて、ケンブリッジ大学で教鞭を執っていた国際人である。その国際人が、「日本人には英語の教育は要らない」とでも言いたい論調に驚いた。いちいち頷ける部分もあるがその結論には与み出来ない。


何故この論文が出てきたかは、やはり今回の文科省の大学入試改革から出ている。従来のセンター試験からの改革の目的は、「これからの激しい社会変化に耐えうるグローバルな人材の育成」が目標となった。「英語が話せないと国際競争に負けてしまう」という点にあった。ところが、OECDの調査で英語によるコミュニケーション能力で日本は先進36ヶ国でダントツのビリ。アジア29ヶ国中26位。日本は英語に関し全くの無能との結果が出ている。


しかし藤原氏の論調は、「この英語無能国民が世界第3位のGDPを誇り、自然科学でノーベル賞を24人が獲得している。一国の経済力や知的生産力に英語力は無関係を証明している」とし、「小学校一年から毎週3時間づつ英語の学習をしても話せるようにはならない。その分、国語や算数が減らされ漢字や九九がままならない日本人が激増する。英語を学ぶことは壮大な無駄ということだ」と説く。この辺から氏の論理に基本的な誤り(或いは実態の見落とし)がヘンな方向に進む。【以下次号】

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今度は本当に近々続編を投稿する。本当は続けたいところだが、ブログとは長々と記述するものではない。友人からお前のブログは長過ぎると注意され、一時は毎日新聞の「余録」や朝日の「天声人語」に倣って600字を目標としたことがあるが遂に尻を割ってしまった。それでも極力短くすることを目的としてここで中断するものである。



菅官房長官はお疲れ



新任2大臣の更迭や「桜を見る会」の数々の質問逃れと真相糊塗の説明を余儀なくされる中、今度は懐刀の和泉首相補佐官の不倫旅行を兼ねた公務出張が露見し、十分な調査・説明なしでお得意の「問題ない」の決め台詞で斬って捨てた。今後の展開を十分考慮することなしの発言で、釈明続きでお疲れの様子である。


和泉首相補佐官、出張中に私的観光 官房長官「私費で移動」問題視せず


12日発売の週刊文春は、和泉洋人首相補佐官が公費で京都市に出張した際に私的な観光をしていたと報じた。これについて菅義偉官房長官は同日午前の記者会見で、「京都市内での移動は私費で支払っており、適切に対応したと聞いている」と述べ、問題ないとの認識を示した。

(毎日新聞)

二人は京都大学iPS細胞研究所の山中伸弥所長に面会するため京都に出張。午前中に山中氏との面会をすませると、ハイヤーに乗り、観光客で賑わう河原町へ。老舗の甘味処でかき氷を注文すると、和泉氏は自分のスプーンで大坪氏に食べさせるなど、親密な様子を見せた。その後、ハイヤーで40分ほどかけて京都市北部の山奥にある貴船神社へも立ち寄り、腕をからめて参道を歩くなど、終始仲睦まじい様子だった。(文春デジタル)

官と民の感覚はこんなにも違うものかと唖然とさせられる。現役時代、京都から東京に出張した時、スキーとザックを担いで支社の事務所に現れた男がいた。聞けば、東京での会議が終われば帰途志賀高原に立寄り、休暇を取ってスキーを楽しんだ後、長野から京都へ帰るという。


支社の管理職は、「往復の交通費をどのように精算する積りか?その前に社用出張途中の有給休暇取得をお前の上司は認めたのか。就業規則をよく見ろ」とその場で京都本社の上司に電話し、長野行きと旅館をキャンセルさせたことがある。


公務とはこういうものである。首相補佐官とお相手の厚生審議官は河原町や貴船に行くハイヤー代は自分で負担したと当たり前のことを説明しているが、そもそも京大の山中教授との面談を口実に京都に不倫旅行した往復の新幹線代は公費で支払ったという。ぬけぬけと出張日当まで請求したのではないか。民間ならこんな点まで追及されるのだが、「問題ない」で済ます官房長官も能天気で結構なものである。経済界はどうしているか、一度官房長官から経団連に聞いてみてはどうか。




予想外れの「今年の漢字」



「今年の漢字2019」が発表され、トップは『令』だった。10位まで発表されたが、事前に私が予想していた漢字は10位にも入らなかった。毎年恒例となった「今年の漢字」はその年の世相を表す字とされている。その意味で予想が一つも入っていなかったというのは、如何に私が時勢に疎いかを証明している。


当初私が、今度こそ固いと予想していた字は「桜」だった。国中を興奮させ元気づけたラグビーワールドカップで日本代表が大活躍した年であり、そのユニフォームやエンブレムが「桜」だった。英紙BBCなど海外メディアにBrave Blossoms(勇敢な桜)と表現された。


もう一つの「桜」は言うまでもなく日本の中枢の国会に満開となった「桜」で、こちらは短い筈の花の命も散りそうもなく年を越す「永田町の桜」である。


どちらも今年の世相を表すには相応しい字であるが、何故かトップテンにも入らなかった。「桜」と言えば最近は直ぐに連想するのが国会論議で、ラグビーでのワンチームの印象が薄れ、菅官房長官も「見たくも聞きたくもない」と本音を言わせた程である。勘ぐれば、「今年の漢字」主催者の公益財団法人である日本漢字能力検定協会に政権に対する忖度があったに違いない。同協会の理事には外務省参与の名も見える。


私としては、清水寺貫主に一度字画の多い文字を書かせてみたい悪戯心もあった。


一方、私自身の今年の漢字は何かと問われると、厭な字だが「老」である。人間80才を越えると一挙に老ける。今朝もウォーキングでいつものように速歩で歩いていた積りだが、後ろからバギーに赤ちゃんを乗せて歩いて来た若いママに追い抜かれてしまった。グラウンドゴルフ仲間の話を聞くと、「80才を過ぎると、目に見えてスコアが悪くなる」との経験談もあり、自分の最近の成績を見て納得している。





こんな説明能力で外交交渉が出来るか



大喧噪の中で臨時国会が閉幕した。大勢に追いかけられている最中に時間切れを幸い慌ててドアを閉めて逃げてしまった感じがする。今年の政局を総括して国民の理解と納得を得た上、年末を迎えるというハッピーエンドとは程遠い幕切れだった。


特に終末の論議は「桜を見る会」問題に集中し、与党からは「いつまでこの問題に執着するのか。重要課題は他に山積している」と批判の声が出ているが、国民とすれば「いつまで隠し続けるのか」と言いたいところであった。


そのお陰で、「桜」問題に関する国会での安倍首相の答弁は、お得意の質問をはぐらかせた通り一遍の繰り返し、菅官房長官の定例記者会見ではいつもの歯切れよさが姿を潜めシドロモドロの答弁で、与党幹部からも「ガタが来た」と危機感が出ている。どう贔屓目に見ても国民に対する説得力はない。ご自身からも「ご理解頂いていないことを痛感している」と正直なコメントが出ている。


国民に対する説明能力もこの程度である。北方領土問題、北朝鮮との拉致問題交渉などが進展しないのもうなずける。首相がイランに行ってトランプとの仲立ちをすると臆面もなく良く言えたものである。米国も全く期待はしなかった。そのイラン訪問の成果の出張報告は何もなく、高い税金を使った出張精算報告もない。


政府の説明責任能力はこの程度であることは今回の「桜」問題で白日の下に曝け出された。関係者達は国民は忘れやすいとこれで逃げ遂せたと思っていると間違いである。


私が毎日拝見している東海地方都市の元市会議員の方のブログで昨日、「“桜を見る会”問題点整理メモ」と題し、下記のテーマを残されている。無断で借用して列記する。


  •  公費(税金)のイベントを私物化
  •  参加者が年々増加
  •  反社や反グレなどが参加していた
  •  元山口組員も参加していた
  •  マルチ商法の宣伝の悪用に使用されていた
  •  招待者の基準があいまい
  •  首相の後援会が優先された(前夜祭を含めて)
  •  自民党総裁選のために自民系県会議員を招待
  •  私人である首相夫人にも招待枠があった
  •  当日の飲食物の業者は首相夫人の友人
  •  その他、

   会場の新宿御苑は禁酒のはずが会では酒が振る舞われた


記録に残して将来の検証の資料とするとはこんなことなのである。これを現政権ではすべて廃棄している。そして今後の議論では「記録にない」と逃げるのである。


私も上記を記録として残しておく。ついでに、私なりのメモとして「その他」に下記を追記させて貰う。

 11-1)ホテルニューオータニのパーティ料が通常最低¥11,500.のところ¥5,000.で済んだ精算書類

 11-2)名簿のバックアップ・データを消去出来た証拠(物理的に消去出来ない筈)

 11-3)叙勲受章者が公表されて「桜」に招待された功労者名を隠す理由

 11-4)招待状の「60」番は誰の招待か


他にまだまだある疑惑満載の問題である。おそらく現政権の命取りになるかも知れない。






サウジのレストランで女性差別改善



サウジアラビアの女性は自動車の運転免許は認められず自転車にも乗れなかった。これ以外にも学校での体育の授業には参加出来ない、スポーツは全て禁止されているなど厳格な禁止措置が取られていた。また、女性単独では旅行が出来ず男性の保護が必要など、いずれも法的禁止措置でなく生活慣習で、理由としては「女性は子供を産み子孫を育てる大事な身であり、それに支障を及ぼす行動から守る」との母性保護の目的だと説明する声もあった。ホンマカイナ?


そんな大義なら、女性は高等教育は受けられないとか選挙権もない、ましてや議員になる資格もないというのは説明がつかない。昨日、こんな珍妙な記事をBBCニュース電子版で見付けた。題して、『サウジでレストランでの性差別措置を終了』とある。なんのことかと読み始めると、いままでレストランや喫茶店の入り口は、女性及び家族用と男性専用と2ヶ所のドアを必要とし、店内のテーブルもカーテンで仕切っていた。この措置を撤廃するというものである。ということは、結婚前の男女は一緒に食事出来なかったことになる。


サウジでは女性のスポーツ禁止を緩和し、2012年のロンドン五輪大会で初めて柔道と800m陸上に2人の女性選手を参加させ、2016年のリオ五輪では4名の女子選手を送り込んだ。昨年から今年にかけて、女性の運転免許交付、単独旅行容認、学校で男性教師に対する質問許可など従来の禁止措置を緩和している。


教室で男性教師に質問許可とはどんなことかと言えば、従来は女子生徒が男性教師に直接質問することは出来ず、疑問点を家に持ち帰って親に話し、父親から教師に書面で質問するなど厄介な手段が必要だったらしい。


我々には想像もつかない場面で男女差別があったらしいが、性差別撤廃運動団体では、サウジには他にもまだまだ不平等な習慣が残っているという。


出典:BBCニュース電子版(こちら






我が家に新しい家族が仲間入り


インコ (2).JPG


昨年、ペットのウサギを老衰で亡くした後、我が家にはペット不在だったが、この程新しく生後2ヵ月のインコ2羽が仲間入りした。ウサギの場合は、部屋の中を走り回るだけで声を出さないが、今回は夜が明けると元気な囀り声を出して賑やかである。


同居している娘がペットショップで買って来たもので、初めは1羽だけ求めるつもりだったが、店先で同居していた友達か兄弟か不明ながら、残されたもう1羽が寂しそうにするので情にほだされて一緒に買ったという。

10年程前は文鳥やオウムなど相次いで飼っていた時には、もう少し大きな籠に入れていたが、ウサギになってからは以前の籠は捨ててしまっていた。


今回のインコは、生後丁寧に育てられていたので人には馴れている。鳥籠の入り口から手を差し入れると指に乗るし、籠から出してやると馴れ馴れしく家人や私の肩や頭に乗っかって早速我が家の家族の仲間入りをした。


ウサギの時は室内に放してやると走り回って、電化製品のコードを齧るとか壁紙を食い破るなど被害を受けたが、今度の小鳥は飛び羽根を切られているため少ししか飛べない。コードに留ることもあるが、今のところは被覆を食い破ることはない。


「小鳥の鳴き声が聞こえる家庭は明るい」と言われるが全くその通りで、外出から帰宅して玄関の扉を開けると囀り声が聞こえてくると気分も明るくなる。家人は「小鳥を遊ばせている」と言うが、遊ばせて貰っているのは自分達の方である。


今日も明るい陽射しが差し込む窓際に鳥籠を置いてやると、一層賑やかな声を出して日光浴をしていた。




困る明け方の雨



気象衛星やスーパーコンピュータなどを利用した技術の発展に伴い、気象予報精度は各段の進歩を遂げている。今日・明日の天気だけでなく、週間天気も予報通りに展開しているので信頼度は高い。台風・大雨情報などはその最たるもので、避難準備など事前の備えに非常に役に立っている。


ただ、その予報精度も年間を通じてという訳には行かず、晩秋から初冬にかけての今日この頃は、「女心と秋の空」と言われる程変わり易く、予報が当たらないケースが多い。その他にも梅雨の季節も外れが目立つ。いずれも突然の天候の変化で、気象予報士泣かせの季節である。


その気象予報士であるが、数多くの難問の国家試験に合格し、自宅に部屋一杯の測定設備を設置する必要がある。だからと言って、自分で予想した予報をテレビなどで発表出来ない。気象予報士により予報が異なれば視聴者に混乱を与えるので、気象庁からの情報通りを反復することを義務付けられる主体性のない仕事で、過酷な国家試験を克服し、多額の機材設置の投資をした割には自己の能力を発揮出来ない役割である。


従って、予報が外れるのは気象予報士の責任ではなく気象庁の責任である。気象予報士は視聴者など受益者の前面に立つので批判を浴びる損な役目を負っている。


予報が外れて視聴者が最も混乱させられるのは、晴れの予想で胸を躍らせて起床したら雨が降っている場面である。屋外の行事がある場合、強行するか順延するかの判断を迫られる。我々グラウンドゴルフの行事では多くの場合、朝8時か8時30分の集合で、家を出るのは7時から7時30分。その時に雨が降っていても西の空が明るい場合の判断が難しい。元々天気予報では晴天だったのである。


連絡網を通じて降雨順延の連絡が入る。天気には勝てないと諦めて出発準備をしていたのを武装解除し、やおら新聞を広げて読み始める。ところが暫くして「一天俄かに晴れ渡り」、集合時刻前後には太陽が差して来る。そう言えば今日の予報は晴れだった。とすれば、気象庁にも気象予報士にも責任はない。困るのはやはり「女心と秋の空」だったのである。




乱発される言葉、「答弁は差し控えます」



最近の報道でとみに気付くのは、「答弁を差し控えさせて頂きます」との回答で質問を遮断してしまう閣僚や官僚の答弁である。この答弁に接して、何故かと理由を聞いた場面を聞いたことはない。質問者も「あぁそうですか」と引き下がってしまうのが殆どである。


その理由は「個人情報に関わるため」で片付けられてしまうのを質問者が予め承知しているからに違いない。例えば、「桜を見る会」問題で名簿が開示されず廃棄されたのは「個人情報」に関わるとの理由とされている。


「プライバシー保護」という訳が分からない言葉は、これだけで強い拘束力を持っている。しかし、「桜を見る会」の参加者名簿を開示されて不利をもたらす理由は何かと問われると、その説明に窮するに違いない。名簿を開示された参加者に不利をもたらす理由は何もない。参加者ではなく彼らを招待した側が困るのである。何故その人を招待したかを釈明しなくらはならない。名簿を開示されても、その中に記載されている人には痛くも痒くもない筈である。ジャパンライフの山口会長が招待されてもご本人には責任はない。招待した方がその責を問われている所以である。


「桜を見る会」問題だけではない。関電社長が高浜町の元助役から3億円以上の金品を受け取っていた件で、記者会見の質問に対し、理由を述べることなしに「回答を差し控える」を連発して不信を買った例もある。


「答弁を差し控える」と言えば、その場を逃げられる表現として社会的地位を確立された感がるが、そう言われれば罪を認めた意味とみなす国民的合意を確立して懲罰規定を制定すべきである。


他にも検察で社会的に注目されている事件でも、「不起訴」と裁定してその理由を述べなくでも良いとの、何とも国民的フラストレーションを起こさせる法令もあるが、この場合は検察審査会で再審査させる救済措置がある。


「答弁を差し控える」と言えば、その場を逃げられる安易な社会ではない厳しい措置が必要である。こんなテーマは、いつも逃げ回っている政権からは提起されない。野党からの議員立法か強力な国民運動に頼る他はない。







国会に負けじと咲く地元の桜



国会では連日、季節外れの桜が咲き誇っている。いわゆる「桜を見る会」問題である。これ程豊富な具体的証拠を、全て「あったものをない」と虚偽を承知で釈明する側の精神的、肉体的な苦痛と疲労度は大変なものと外野席からは同情して不毛な論戦を眺めている。ここには国民を代表して国造りを先導する閣僚、官僚の品格、国会の機能はどこにも見られない。


数ある関連報道の中に、「時ならぬ桜が花盛り」と揶揄する表現があったが、この季節に実際に芽を出したホンモノの桜に出会った。毎朝のウォーキングで歩き慣れた道筋に、地元の小さな神社が三か所にもある。いずれも地元の鎮守の神様を祀る小さな神社であるが、歴史は相当に古く、それぞれの鳥居の前に将棋の駒の形をした沿革説明立札が立っている。

その中に、創建が奈良時代と称する神社の入り口に、時ならぬサクラらしき花が咲いているのを見つけた。このところ急激に冷え込み、ウォーキング姿も厚手のジャンパーに替えた当日である。冷たく強い風にも関わらず芽を吹き出していた。瞬時に「寒桜」の名前が頭に浮かんだ。木は一本だけだが、取り急ぎ手持ちのiPodtouchで写真に撮って、帰宅してからパソコンで花図鑑を調べた。


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「寒桜」をキーワードで調べると、写真がついていて、先ほど撮ったサクラとは花びらが少し異なるようである。しかも「寒桜」は『2~3月に咲くバラ科の花』とあり季節が合わない。同じ検索結果窓に「寒桜と冬桜の違い」という項目があり、「冬桜」は『山桜と豆桜が交配した雑種の桜。開花時期は10~12月』とある。時期的にピッタリであり、写真を見ると先程出会った花びらと同じ形をしている。


過去何年も同じ道を通っていたのに、この季節に咲いているのに初めて気づいた。花図鑑の説明文は続けて、『同じ木に3分の1が1012月に、残りが春頃に2回に分けて咲くので“四季桜”とも呼ぶ』とある。これは今まで知らなかった。なんだかトクをした気がして、来年の春には注意して見ることにする。


さぁ~、その時期には国会の桜はどうなっているか?


パソコンに残っているデータ



「桜を見る会」論議では、招待者名簿の資料はシュレッダーで裁断し、パソコンの電子データは削除してしまって残っていないというのが当初の政府側答弁だった。パソコンで入力したデータを削除しても、サーバー管理会社のサーバーに残っているのが普通で、素人だましの釈明だなと思っていたが、安倍首相の答弁は今月に入って、「内閣府のシステムはシンクライアント方式で管理している」との新たな回答がもたらされた。


現役時代、事務所には各自にパソコンが割り当てられるようになった初期の頃、キーボードなど叩いたことがない社員に使用方法を習熟させるため、社内の情報システム部員は手分けして社内講習会や各部署に出張教育をした。作成したデータは「削除」キーを押すだけで消去出来ると教えられた。


ところが管理職には別に、パソコンには「削除済ファイル」があることを内緒で知らされていて、部下が私用目的に作成したものは容易に見付かったものである。データを削除するには、作成したファイルだけでなく「削除済ファイル」からも消去しなければならないことは、瞬く間に社員に広まった。しかし、まだ奥には奥がある。社内ネットワークは情報システム部の隣室一杯に据え付けられた大型サーバーで集中管理されており、各自のパソコンデータは簡単に見付かることは大々的に周知され、これがパソコンの私用目的防止に一定の効果があった。


我々個人が家庭で使用しているパソコンは、プロバイダーなどサーバー管理会社につながっている。役所などは各省庁の中央サーバーで集中管理されている。この中にパソコン使用者が作成したデータが残っている。ただ外部からは見られない。サーバー管理会社の情報保持義務と法令により、所定の手順なしでは検察や警察でも開示されない。


ところが、内閣府で導入したシンクライアント方式は各自のPCに保存機能はなく、中央サーバーに保管される。元々は働き方改革などで在宅勤務者に利用され、データ入力するPCは無駄なソフトが入っていないので従来のPCより非常に安価だが、これが内閣府のデータ守秘のために「悪用」されていたとは意外だった。このサーバーは内閣府固有のもので、首相や官房長官から「消去せよ」と言われれば直ちに処理出来る。


ただ、この中央サーバーが故障すれば、つながっている内閣府のパソコンからのデータが一時に消えるので、バックアップの意味で他のサーバーに連結されている筈である。内閣府のサーバーに残っていなくても、消されたデータはどこかに保管されている。


これを如何に合法的に引き出させるかは野党の追及力か、国民運動などの総合力である。


米国国立公園で日本人が転落死



今日の毎日新聞に目を引いた記事がある。

米西部ユタ州のアーチーズ国立公園で11月29日、60代の日本人の男女2人が転落し、死亡する事故があった。同行していた30代の日本人男性も負傷し、病院に搬送された。在デンバー日本総領事館などが明らかにした。

地元警察によると、事故は同公園で最も有名な奇岩「デリケートアーチ」近くで発生。日本人の男性(65)と女性(60)の死亡を確認した。公園は事故後一時閉鎖された。

死亡した人達に対して非礼な表現だが、記事としては何でもない普通の事件である。しかし、ここに日本人の危機意識の低さが潜んでいる。


米国に旅行しなくても、グランドキャニオンやヨセミテ、ナイアガラなどの観光地の写真を見て、一足踏み誤れば断崖から真っ逆さまになる地点に転落防止柵が設置されていないことに日本人としては違和感を覚える。これらより遥かに規模が小さい東尋坊にでも転落防止柵が設置されている。東尋坊だけではない。多くの景勝地でも類似の危機回避策が講じられている。


目も眩むようなグランドキャニオンの断崖の柵のない先端に立っている米国人観光客の写真を見るだけでハラハラさせられるが、彼らには危機ポイントの一歩手前で踏みとどまる意識があるらしい。我々日本人は、このような危機意識が薄い。駅のプラットフォームに転落防止の仕切りが徹底されていないと騒ぐ社会である。


大体、駅のプラットフォームの端は危ないという危機意識は我々の世代には子供の頃から叩き込まれていた。今の子供だけでなく若い世代の人たちは「♪動き始めた汽車に、一人飛び乗ったぁ~」と歌われても意味が分からないらしい。列車は乗降口の扉が閉まったのを確認してからではないと動き始めないのに、何故飛び乗れるのかの疑問が先立つ。以前は、列車の客車の乗降口に扉がなくても身を守る習慣を誰もが身に着けていたのである。


外国人は新幹線の網棚に貴重品の入った鞄を置いたままトイレに行くことはない。治安対策が身についている。こんな習慣がなく、危険な箇所には防御措置が講じられている生活環境に染まった日本人が、海外へ行けば置き引きに会ったり、崖から転落することになるのである。




「みんなで健康200日チャレンジ」



守山市健康福祉部で主催の毎年恒例の市民健康促進事業、「みんなで健康200日チャレンジ」が、515日から始まり200日目の昨日1130日に終了した。毎日の自分の体重とその日に歩いた歩数を記録し、所定の様式に記入して事務局に提出するか、ウェブで入力して毎日報告するかどちらかを選択出来る。


ウェブで報告すると、歩数に相当する距離に換算し、その距離に応じた仮想の中山道をどの宿場まで歩いたかを画面で知らせてくれる。日本橋からスタートし、ゴールの三条大橋まで69宿を歩くことになる。


私はこの行事が始まった515日から、毎日ウェブで入力を続け、最終日の昨日まで欠かさず続けることが出来た。結果として中山道を二周し、三周目を軽井沢宿まで歩いて終了した。200日で1,870,283歩いたと記録されている。


旅行などの都合でその日に入力出来なかった人のために2週間前まで遡って入力出来ることになっているので、1130日に終了したというものの、その期間中に歩いた実績は1214日まで報告することが出来る。


これらの未入力分は除いて1130日現在の集計を見ると、ウェブで報告している人は406名。内、無事日本橋から三条大橋まで完歩した人は275名、私のように2回完歩した人は127名。トップの人はナント9周目に入っていた。私は暫定96位だった。


トップの人の全歩数は全200日間で7,312,902歩と出ている。1日平均36,565歩!私が10,000歩で1時間半なので、このペースなら5時間半かかる。これが毎日となれば、散歩やウォーキングの範疇を超えている。おそらく、外歩きが仕事の人であろう。


市の主催者からの連絡では、仮想中山道を完歩した人には記念品が出るらしい。昨年の私は途中で入院したため棄権したが、その前に完歩した時は記念品として水に浸せば冷たくなる素材で作った首巻きタオルを貰った。暑い季節のウォーキングやグラウンドゴルフに重宝でいまだに使っている。しかし、2周したからと言って記念品は2回分貰える訳ではない。この運動は記念品目的や他人との競争ためではなく、あくまで個人の健康維持増進が目的だから当たり前の話である。


いずれにせよ、単に歩いているだけではなく、一つの目標のある面白い企画であった。