加齢と共に進まない断捨離



ある日の毎日新聞朝刊の読者投稿川柳欄に、その日の優秀作品10句と上位3句に対する選者のコメントにこんな記述があった。


最優秀句:「目に付かぬ場所に移して断捨離と」

選者評: 「気持ちは“断”しているので結構ですが、物理的に“捨離”出来ていません。一年間使っていなかったものは思い切って捨てましょう。そして必要になったら買い戻す、それで経済は廻るのです」


選者のコメントは「断捨離」を進めるための正論かも知れないが、投稿者と選者の間にジェネレーション・ギャップが感じられる。人が長い間所有している程、処分出来なくなるものがある。その所有物には簡単に買い足せない、新品では充足出来ないものに包まれている。それは所有主がその持ち物と一緒に歩んできた人生行路の記録である。その所有物を見れば香って来る所有者のみが感じられる想い出である。



上掲の写真は、私が進める断捨離作業の都度、押し入れから出て来ては最終的に目に付かぬ場所に戻しているゴミである。具体的には、現役時代に海外に飛び回った時に空港で職員が手荷物に括り付けてくれた荷卸し空港を表示したタグの山である。座席には持ち込めないので貨物室に格納され、到着目的地に着けばコンベヤに乗せられて廻って来るものをピックアップして手荷物検査に持って行く。本来ならそこで任務を終えてタグを引き千切って捨てるべきものだが通常は次の便に乗るまで手荷物に付いたままになっている。それを海外出張の想い出として特に意識せずに残しておいた束である。勿論、再度使用するものではない。


上掲の写真はその中で南米駐在時代に飛び回った中南米方面でのタグの束だが、別に頻繁に出張した欧州版の束もある。文字通り、今後何の使い道がないゴミの山なので断捨離の一番候補だが、これが捨てられない。定年退職して行動範囲が極端に狭くなった今、尚更世界を飛び回ったことがあることを思い出させる貴重な品物である。現地を撮影した写真はゴマンとあるが、写真にはない現物として私には貴重品である。川柳の選者が言うように「買い足せる」ものではない。