観客聴衆も舞台の主役



本来は歓呼の声に背中を押されて意気揚々と行動している筈の晴れの舞台が、森閑とした場所に包まれた。最も晴れやかな筈の東京オリンピックの開会式である。入場行進する選手達も、大きく手を振って呼応する応援席に誰も相手がいないという文字通り振り上げた手を下ろす場所がない拍子抜けの場面である。レイチェル・カーソンではないが「沈黙の五輪」の印象である。


最近貰った会社の先輩からのメールに、「年初恒例のウィーンフィルのニューイヤーコンサート(ムーティ指揮)も聴衆はいませんでしたね。聴衆がいないのは、やはり何となくむなしく、特に最後のラコッチーマーチは聴衆が所々で拍手することになっているのに、それがないので何だか拍子抜けのような気がしました。コンサートは、聴衆が一体となって成立するものであることが痛い程分かりました」とあったのは全くその通りで、ニューイヤーコンサートを盛り上げて締め括るのはアンコールでのラコッチー行進曲で満場を揺るがす聴衆の手拍子である。似たような場面に、モーツアルトのオペラ、「フィガロの結婚」第一幕終了間際、フィガロの「もう飛ぶまいぞこの蝶々」が歌い終わると、軽やかな管弦楽の行進曲が続き、聴衆の手拍子に歩調を合わせて幕が閉まって行く場面がある。いずれも聴衆がそのシーンを構成する重要な要素なのである。


オリンピックだけではない。最近のサッカーJリーグやこれから始まる全国高校野球も無観客、或いは制限された入場者だけが参加するイベントも同様である。コロナ菌感染を阻止するための止むを得ない措置かも知れないが、そうかと言ってコロナ禍は人類が経験したことのない災難である。感染・発生・防止・治療策に科学的な検証が終わっていない中での「万一に備えた」予防策である。無観客なら感染拡大しないと科学的に立証された訳ではない。居酒屋営業自粛措置も同様である。


今、医療業界も感染研究所も現行の感染者治療に手が一杯で、原因と対策に取り組む余力はない。コロナ菌蔓延という予測もつかなかった災禍に見舞われたのが今の時代に生きる人類の不幸である。ここは諦めて災難が通り過ぎるのを我慢して待つより仕方がない。