真夜中のオアシス「ラーメン屋台」が絶滅危機



我々の若い頃「支那ソバ」と気軽に呼んでいた屋台があった。繁華街の街角に夜になると現れて、屋台の軒先に赤提灯をぶら下げて小さな暖簾を垂らし、屋台との狭いスペースに床几を置き4~5人が横に並んで腰かけて食べさせる方式である。床几がなく立ち食いさせる方が多かった。


同じスタイルの路上屋台で「おでん」を提供する店もあった。今でいうキッチンカーの走りである。こちらは酒の提供が主目的のため、必ず腰かける床几があったが、「支那ソバ」は飲み屋で十分飲んだ後の酔いざましが目的で「締めにはラーメン」という言葉が今に引き継がれている。一定の場所に屋台を構えて客を待つ形式と、自転車やバイク、軽トラで屋台を引っ張って住宅街の中をチャルメラを吹いて動き廻る「夜鳴きソバ」と呼ぶ移動式とがあった。


メルマガMAG2ニュースによると、このラーメン屋台数が昭和40年代には関西だけで200軒を越えていたのに、今はやっと10軒を越すのみで絶滅の危機にあるとのショッキングなレポートがある(こちら)。


私も若い頃に良く利用した経験がある。新京極の京都花月劇場前や京都駅前中央郵便局付近の路上に夜になると集まる屋台群の食べ歩きは、一杯やった後に必ず訪れる常連だった。京都駅前の屋台は10~20軒が一堂に会していた印象があり、「関西で200軒以上」とあるのはどう見ても少ない。京都駅前だけでなく、四条大宮阪急駅前とか三条京阪駅前、千本通りなど殆どの繁華街には必ず何軒か出ていた。京都駅前は余りの多さに景観を損ねると社会問題になり、東側の線路を跨ぐ高架橋横に集団移転させられたが、国鉄利用客の足が多少不便になったにも関わらず屋台の利用客は更に増えたと言われる。


博多の屋台が押しなべて「豚骨ラーメン」なのに対し、京都は鶏ガラスープの「醤油ラーメン」でラーメンという言葉がなかった時代の「支那ソバ」の語感は現代と異なるオイシサを連想させる。


当時の屋台はバケツに張った水で器を洗うという衛生面では問題のある営業だったが、それを感じさせない「支那ソバ」は懐かしい昭和の味だった。