西高瀬川



昨日のこのブログページで、碁盤の目の京都市街道路で唯一斜めに走る「後院通り」が古くからの材木商店街に阻まれた産物として紹介した。では何故首都の旧市街の入り口に材木商が集まったかを昨日の続編として紹介する。子供の頃、近くに住んでいた人間にのみ見聞き出来た京都の歴史の一部分である。


これら材木商が扱っていた木材はどこから来たのか。京都府北部の遠く丹波の山奥から運ばれて来たものである。輸送手段は丹波から保津川を下り、亀岡、嵐山を経由して西高瀬川に入り、真っ直ぐ東向して材木商が集まる千本三条まで「筏(いかだ)」に組んで運ばれて来た。


森鴎外の「高瀬舟」は京都市の東、加茂川に平行して走る運河「高瀬川」だが、同じ運河ながら「西高瀬川」は保津川下流、大堰川の嵐山渡月橋近くから取水し、嵐山を起点とする三条通り(東海道の源点)に沿って西から東に千本三条まで5.7kmを真っ直ぐに走る。1863年に開削された。以後明治に入って延長工事し、その先を直角に曲がって南下し、東向・南下を繰り返して最後には鴨川に合流している。


私は子供の頃、嵐山大堰川を見下ろす小倉山の展望台から、長い筏がゆっくり流れて来るのを見たことがある。6~7本の丸太を横に並べ、5~8組を縦に結わえたもので、先頭と最後尾に菅笠を冠った人が竿を持って乗り、下って来る光景を強烈に覚えている。恐らく、大堰川で筏の運行を直接見た最後の世代だろう。ただ、西高瀬川での筏運行は見たことはない。私が産まれた頃に、西高瀬川と交叉する天神川が天井川だったので度々水害を起こしたため、天神川を深く掘り下げた結果、西高瀬川の豊富な水量は天神川に雪崩落ちてその先の水量が激減したためである。


それまで筏は千本三条近辺で解体され集積された。その前の西大路三条から西高瀬川に沿って千本三条まで多数の材木集積場が連なっていた。子供の頃、高く積まれた丸太の山に登るのは絶好の遊び場だった。この辺りはすっかり宅地に変わったが地主は殆ど材木商である。


木材は住宅や寺院建設など京都の発展やまた応仁の乱など度重なる火災での復興需要にも欠かせない重要な産業であった。それだけに発言力も強く、この辺りに「後院通り」を無理に捻じ曲げさせた背景があったに違いない。丁度今の京都市長が、室町や西陣の和服組合の圧力で毎日着物姿で登庁しているのと同じである。